安福寺の歴史
尾張2代目藩主徳川光友公の菩提寺として、徳川光友公より深い帰依を受けた浄土宗の僧、開山珂憶上人によって寛文年間(1666~1670)に建立される。本尊は阿弥陀如来。
本堂は創建以来、一度も出火せず、総欅造りで、梁・柱が非常に太く「聖徳太子式珂憶建」と呼ばれる。法隆寺を建立したその伝統を継承する集団の技術を採用したことに由来する。
安福寺 開山珂憶圓信上人
珂憶上人は、寛永12(1635)年12月1日、新田義貞の後裔という若狭国の里見義勝と、伴氏の出という母のもと生まれました。寛永18(1641)年、江戸深川霊巌寺の珂山上人の弟子となり、正保2(1645)年には珂碩上人の弟子となりました。珂碩上人は江戸に浄真寺を開基し、珂憶上人も修行を続けましたが、万治2(1658)年、25歳の時に諸国修練の旅に出ます。その旅中、徳川御三家尾張大納言2代目藩主徳川光友公と出会い、深い帰依を受けます。30歳の珂憶上人と40歳の光友公が、非常に親しくやり取りを重ねながら玉手山に安福寺を再興していく様子が古文書からもうかがうことが出来ます。
○に信
圓信という名前から瓦の巴に○に信と刻むという工夫がされています。
※よく見られる瓦の巴には建物の一番の災難は火災です。水に関係ある紋章刻むことで防火の願いが込めらます。
尾張大納言2代目藩主徳川光友公
尾張徳川家は、水戸徳川家・紀州徳川家とともに、徳川家康の実子や子孫を始祖とする「御三家」の一角をなす。尾張藩は御三家筆頭で、尾張国一国に加えて美濃・三河・信濃・近江・摂津などにも領地を有し、木曽桧などの材木による収益、さらには新田開発の積極的な実施によって、莫大な藩収入をもっていました。財政が豊かで、民政に優れ、江戸時代を通じて一揆が起こらなかった藩ともいわれています。
光友公は初代藩主義直の長男として生まれます。光友は寛文12年(1672年)に2代藩主となってからの名前で、元服時には光義と名乗っていました(3代将軍家光と父義直から一字ずつ授かった)。義直は徳川家康9男で、実子である徳川光友公は徳川家康の直系の孫にあたります。光友公は同時代において徳川家康の血を色濃く受け継いでいた一人です。
元禄6年(1693年)4月25日に家督を嫡男綱義(綱誠)に譲り、隠居し、元禄12年(1699年)に綱誠に先立たれ、翌年の元禄13年(1700年)10月16日往生。
光友公と珂憶上人の関係
光友公と珂憶上人との間には深い結びつきがあり、二人が相談をしながら菩提寺として安福寺を再興します。その関係は、安福寺への香華料寄附の古文書からもうかがうことが出来ます。
光友公が下付した黒印状は珂憶上人個人へ宛てたものです。6代藩主継友以降は、安福寺への下付へと変更されていきます。これは光友公は珂憶上人自身への帰依の心から寄附をおこなっていたが、光友公以降は尾張藩として安福寺との関係で寄附を続けていたと考えられます。
現在も古文書の整理を行っています。
於河内国玉手山建立之
■修為、供物料尾州海西郡
大宝新田之内、上田弐拾町之
納米永代令寄附之證金
寺納之旨、申付置之者也
仍如件
元禄七甲戊年十二月朔日光友 御判
珂憶和尚
(河内国玉手山に建立の■修のために、供物料として尾張国西海郡大宝新田からの納米を永代にわたり寄附させる證金を寺納することを申しつけておく)
瑞龍院殿在世之時、於河内国
玉手山建立之■修為、供物料
尾州海西郡大宝新田之内、
納米被寄附之処、今般之改替
石牌為、香華料銀三貫目
毎歳寺納之旨、申付置者也
享保十年三月六日(黒印)
安福寺
(瑞龍院殿(光友公)が在世のときに、河内国玉手山に建立の■修のために、供物料として尾張国西海郡大宝新田からの納米を寄附されているが、今回の藩主交代の石牌のために、香華料3貫目を毎年寺納することを申しつけておく)
河内名所図会
当時の安福寺の様子
横穴古墳、割竹形石棺(重要文化財)が描かれている。
玉手山山頂(玉手山古墳群 7号墳 前方後円墳)の前方部分には徳川光友公の御廟が、そして後円部分には大坂夏の陣の供養塔が描かれています。
河内名所図会 享和元年(1801) 安福寺所蔵
安福寺開山珂憶上人
歴代諸上人御廟
大坂夏の陣供養塔
玉手山山頂は前方部を西に向けた全長110m余りの玉手山古墳群の7号墳になります。前方後円墳の前方部分が尾張2代目藩主徳川光友公の御廟であり、後円部は玉手山公園内にあり、頂上には大坂夏の陣の供養塔が祀られています。
この大坂夏の陣供養塔は珂憶上人によって建立されています。後藤又兵衛をはじめ、大坂夏の陣で戦った徳川・豊臣両軍の武将や兵士のみならず、戦火に巻き込まれ犠牲になった庶民、敵味方を区別することなく、新しい時代を築く為に、落とされた尊い命の御霊を鎮める願いが込められます。
毎年6月1日に慰霊祭を勤めています。
後藤又兵衛の活躍~小松山の合戦~
「小松山の争奪が大坂城の運命を決するだろう」というのが後藤又兵衛基次の理論であった。「徳川は30万、豊臣は12万」、又兵衛は必死に説く。「往昔の関ヶ原のごとき野戦では、とうてい御勝利はおぼつきません。とくに駿河の大御所(徳川家康)は武家はじまって以来の野戦の達者といわれるお方でござる。これが息の根をとめ参らせるのは、この小松山。」又兵衛は、絵図面を指でたたいた。大和境に盛りあがっている変哲もない小山であった。絵図のその部分が、又兵衛の叩く指で、ついに小さく破れた。小松山へ大軍を集中しなければならぬ。河内平野へ侵入してくる敵の大兵をここで叩く。かならず勝てる。地勢がそれを勝たせてくれる。そのかわり、味方としては崩れても崩れても新手を投入する覚悟が必要であろうと、又兵衛は説く。「小松山を血の山にする御覚悟、この一事だけが、右大臣家(豊臣秀頼)のご運をひらかせ参る唯一の道でござる」
5月6日、小松山(玉手山)の戦い
いよいよ決戦の日がやってくる。慶長20年(1615)5月6日である。奈良街道を越え、国分へ迫る徳川軍の大部隊。この狭い地は、大部隊を縦長隊にせざる得ない。そこを小松山から、後藤又兵衛、真田幸村などの主力部隊が次々に繰り出しせん滅させる。5月6日明朝、全軍を道明寺に集結させる。これが作戦である。しかし5月5日夜更け。霧という天候にも左右された。一寸先も見えない濃霧。又兵衛と真田軍は合流する手はずになっている。しかし藤井寺にまで兵を進めたが真田はまだ来ない。国分にはすでに徳川先方の水野勝成が迫ってきている。又兵衛は小松山へと駆け上がった。真田隊は1万2千。天王寺から道明寺を目指して必死の行軍をしていた。「遅れれば又兵衛が死ぬ」、しかしこの黒い霧ではどうしようもない。しかし、到着しない真田隊に対し愚痴一つ言わず、逆に自分の作戦が大当たりであったと、狭い道をひしめき合う敵軍目指し、小松山を一気に駆け下りた。そこへ敵軍から集中的に砲弾を浴びせかけられ、又兵衛は胸板をぶち抜かれた。 (司馬遼太郎「軍師二人より」)
尾張大納言2代目藩主
徳川光友公御廟
安福寺山頂には光友公の御廟が祀られており、境内墓地の奥、玉手山7号墳の前方部に玉垣を巡らせた3基の宝篋印塔(ほうきょういんとう)があります。その中央が光友、向かって左が側室の勘解由小路(松寿院)、右が三男(実際は長男)の松平義昌(梁川藩)の石塔です。なぜ、尾張2代目藩主徳川光友公が玉手山の地を菩提寺として選んだのか・・・。
光友公の家族への思い
尾張徳川家の大名が名古屋を出て祀られているのは、光友公一人だけです。そして光友公のみならず、光友公の家族も一緒に祀られています。光友公は14歳の時に3代将軍家光の長女千代姫と婚姻しています。千代姫は2歳6か月で、二人の間に尾張3代目を継ぐ綱誠が授かります。
しかしそれより先に、最初の妻として迎えた側室勘解由小路(松寿院)との間に長男松平義昌を授かっていました。しかし、千代姫との婚姻により、長男義昌は側室の子ということで三男扱いになり、尾張を継ぐことが叶わず、陸奥国簗川藩初代藩主となります。この勘解由小路(松寿院)と松平義昌が共に安福寺に祀られています。将軍家には遠慮しながらも、この世では側室となった勘解由小路(松寿院)、世継ぎではなくなった義昌に対して、次生極楽浄土では共に過ごすことを願われたのではないでしょうか。
安福寺墓地
光友公の御廟と安福寺歴代上人の元、
雑踏から逃れ、心静かに皆さまの亡き大切な方に
お手合わせいただけます。
本 堂
本尊は阿弥陀如来
江戸初期の作品と言われています。
お参りしていただく皆さまのお席が15畳と大変狭く
光友公お1人がお参りされることを想定されています。
ここからも菩提寺であることをうかがうことができます。
割竹形石棺
直弧文をもつ重要文化財に指定された讃岐産割竹形石棺で
外面が丁寧に調整され棺蓋とみられています。
むかえほとけ
慈母観音像
元は、玉手山遊園地内に祀られていました。
慈母観音像は遊園地に遊びに来た子供たちの
喜びに溢れる顔を、祖父母、両親、ご家族が
温かい眼差しで見守り、幸せを願う象徴のお姿です。
現在では安福寺山門をくぐり、むかえほとけとして
祀られています。