夾紵棺
聖徳太子の棺
夾紵棺(きょうちょかん)は漆を塗りながら布を重ねて作られたものです。乾燥すれば布を重ねてまた漆を塗ります。これを何度も繰り返して仕上げられます。安福寺の夾紵棺の注目すべき点は45枚に重ねられた層と、絹という高級素材が使われており、その丈夫さから破片ではなく、長さ94㎝、幅47.5㎝、厚さ3㎝と大きいサイズで残っています。高度な技術と長い製作期間を要するこの夾紵棺は、最高級の棺と認識されています。
柏原市有形文化財指定。高槻市の今城塚古代歴史館、滋賀県立安土城考古博物館、国立歴史民俗博物館で展示。NHK歴史秘話ヒストリアの放送により、安福寺の夾紵棺が世に知られることとなりました。
先々代の住職が寺の床下でみつけ、夾紵棺だとは知らずに床の間の花瓶台として使っていました。手ごろな漆塗りの板だと思ったのでしょう。まさか日本で、もっとも保存状態の良い夾紵棺の一部とは思いもしなかったのです。
7世紀前半の漆物であることが研究の結果報告されています。またその当時の東洋随一の名品であると言われ、聖徳太子の棺の一部ではないかと推測されています。
なぜ、安福寺から発見されたのか。
玉手山安福寺珂憶和尚宛河州叡福寺覚成証書
(延宝3年3月12日)
和州額安寺之霊宝
仏舎利二粒 大緑色小白色
上宮太子之御廟窟江
寄附永代無紛失可
安置者也
河州叡福寺
覚成㊞
延宝三乙卯三月十二日
玉手山安福寺
珂憶和尚
叡福寺への宝塔寄贈
開山珂憶上人の聖徳太子への崇敬の念が強く、四天王寺や叡福寺への寄進を惜しまなかったことが史料に残されています。
さらに、聖徳太子への強い意識は「上ノ太子」である叡福寺への仏舎利の寄附の上記写真の文書からもうかがうことができます。
叡福寺の僧覚成から珂憶上人に送られた延宝三(1675)年3月12日付けの書状(安福寺所蔵)には、「珂憶上人より大和額安寺の仏舎利(お釈迦様のお骨)2粒を聖徳太子の御廟に寄附を頂いた。紛失することなく大切に安置します」と記されています。これは受け取りの礼状です。
叡福寺は「上宮太子之御廟窟」へ安置し、永代にわたって紛失せずに安置することを誓約しています。この御廟とは叡福寺北古墳のことで、夾紵棺はこの仏舎利寄進のお礼として手にしたものかもしれません。
四天王寺への寄進
元禄5 (1692) 年9月6日、珂憶上人は四天王寺へ向け宝物の寄進を行っています。この寄進宝物は唐櫃10棹に収められ、総数144点に及ぶ大規模なものです。珂憶個人が一度にこれほどの宝物を寄進するという行為は極めてまれな行為であり、そこに聖徳太子への厚い信仰が見ることが出来ます。
四天王寺もその寄進宝物を2列に並んだ楽人、各唐櫃に一人の寺僧を伴い、聖徳太子御忌日の22日に奏楽と共に盛大に受け入れていることが史料からわかっています。